高地性集落から二大勢力が存在した根拠を示す!!①
前回私は「前ヤマト王権」と「邪馬台国」が同時期に別勢力として存在していたという説を立てました。
今回と次回にわたり、考古学的な視点からその根拠を以下の2つ提示したいと思います。
今回は高地性集落の分布変遷と用途についてです。
高地性集落の分布変遷と用途
高地性集落の用途
では最初に高地性集落の分布変遷と用途について述べたいと思います。
高地性集落とは高校でも習うように弥生時代に存在した山腹や山頂等の高台に形成された集落跡と言われています。
主な高地性集落遺跡を挙げる
・紫雲出山遺跡(香川県三豊市)
・八堂山遺跡(愛媛県西条市)・大山神社遺跡(兵庫県家島町)・会下山遺跡(兵庫県芦屋市)・伯母野山遺跡(兵庫県神戸市灘区)・保久良神社遺跡(兵庫県神戸市東灘区)等しかしながら、弥生時代の生活基盤は稲作であり、その稲作に適した土地から隔たれた土地にわざわざ集落を形成するのに意味があるだろうか、別な用途があったに違いない、という疑問から多くの研究者が高地性集落の新しい意味について論じています。やはり注目しなければならないのは高地性集落からはしばしば大量の矢尻(鏃)が発見されることが知られる点です。
狩猟用のそれとは明らかにサイズが大きく、武器としての性格をもった石製武器だといえます。さらに剣などの鉄製武器も発見されており、やはり軍事的性格を帯びた遺跡だろうと考えられる。
また、高地性集落はある箇所だけ焼けた土がでてくることから高地性集落の本来の目的は敵の侵攻を察知する狼煙台だとする説もある。また、狼煙台にしては規模が大きいので、砦とする説がある。
また高地性集落の近くには通常の集落遺跡もしばしば発見されているため高地性集落は城に似たような性格であったとする説もある。
また、平地や川、海などを眺望できることから、敵の侵攻を監視するための施設だったともいえます。
高地性集落の分布
高地性集落の時代区分
では高地性集落の分布を見てみよう
高地性集落の出現から消滅時期ごとに6~7次に区分される。
そのなかでも防衛的性格をもつ高地性集落は第3~6ないし7次に登場する。
これを弥生土器類編年区分に当てはめると
弥生Ⅱ・Ⅲ期が高地性集落第3次
弥生IV期が高地性集落第4次
弥生Ⅴ期が高地性集落第5次
古墳前期が高地性集落第6次ないし7次
に当たる。
次回は高地性集落の変遷について論を進めていきたいと思う。
参考文献等はこちら
→→http://yamato-kuhaku.muragon.com/entry/8.html