空白の四世紀の謎

266年から413年の約150年間、日本に関する記述が中国の歴史書から無くなります。

この「空白の四世紀」について考えていきたいと思います。

高地性集落から二大勢力が存在した根拠を示す!!②

高地性集落の分布変遷



各時代の分布変遷


ではどのような分布変遷を辿ったか見てみよう。




高地性集落第2次

瀬戸内、近畿、九州北部にまばらに出現する。



 


高地性集落第3次

東部瀬戸内、西部瀬戸内、近畿を中心に広がる。




高地性集落第4次

東部瀬戸内、近畿が中心。近畿の高地性集落が増加する。


 

高地性集落第5次

・近畿の高地性集落が内陸に展開する

・西部瀬戸内で再び増加。しかしながらすぐに消滅。

という特徴を持つ。




高地性集落第5次以降、古墳時代に入り北陸や中部を中心に展開していき、瀬戸内を中心とした高地性集落は消滅を開始する。

 

以上が高地性集落の分布変遷と用途についての考古学的研究成果をまとめたものである


こちらも参照

http://yamato-kuhaku.muragon.com/entry/7.html

 


これらのことから分かること


このことからなにが分かるかというところに話の論点を移したい。

 

やはり注目する点は分布が時代が下るにつれて東に動くところであろう。


そして、弥生時代期後半~期にかけて北部九州にて出現した高地性集落が、弥生時代末期に向かうにつれ近畿中心となり、古墳時代には北陸・中部中心となって消滅したという点も重要な手がかりである。


つまり、それまで瀬戸内・近畿を支配していた何らかの勢力と、その勢力を東へと押し返した勢力があったと考えるのが自然である。


しばしば、九州にあった邪馬台国が東に東遷(東征)した、それが神武天皇東征神話だとする説がある。しかしながら私はこれらの論には従うことは出来ないと考えている。

これについては回を変えて論じたいと思う。


文献史学的な手法


中国正史


この考古学的研究成果に合わせて文献史学的な見方から考えるとどうなるのかということを考えていきたい。


日本について記述されていて年号がハッキリしている最古の中国の文献を提示する


『後漢書卷八十五』東夷列傳第七十五 倭人条に

「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見 。」

とある。


簡単に訳すと

「建武中元二年に、倭の奴国が朝貢してきた。光武帝は金印を与えた。安帝永初元年、倭國王師升が奴隷160人を連れて朝貢してきた。」

となる。


建武中元二年は西暦57

安帝永初元年は西暦107

である。


同じく『後漢書卷八十五』東夷列傳第七十五 倭人条に

「桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歴年無主。有一女子名曰卑彌呼,

という記述が出てくる。

いわゆる「倭国大乱」の一節である。


次に年号が出てくる記事は

『三國志卷三十 魏書三十』東夷傳倭人条である。いわゆる『魏志倭人伝』である。

以下がその原文活字版である、

「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰」

景初二年は西暦239年である。


また『晉書卷九十七』列傳第六十七 四夷 倭人条に

「宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絶。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。」

とあり

西暦266年壱与か晋に朝貢するというこの記述を最後に「邪馬台国」と呼ばれる国は中国の史料に出てきません。(その後出てくる「邪馬台国」は過去の記憶として記述される)

代わりに「空白の四世紀」を経て、ヤマト王権が歴史上に現れる。

この中国の歴代王朝の「正史」を見ても、2つの勢力が存在したとする根拠の片鱗がみてとれる。


文献史料から考える


まず

「倭奴国」が初めて登場し、「倭国大乱」を経たのちに「邪馬台国」が現れる。その後、「空白の四世紀」を経て「倭の五王」が登場する。

つまり

「倭奴国」=「倭の五王=ヤマト王権」

「邪馬台国」

と捉えることが出来よう。

元来

「倭奴国=倭国=邪馬台国」と、一つの系統だというふうにされるが、原典史料をよんでもどこにも 「倭奴国=倭国=邪馬台国」という記述はない。

確かに「倭国大乱」の最中に卑弥呼を立てたという記事があり、「倭奴国=倭国」の大乱を抑えるために卑弥呼を立てたと読むことも出来ようが、奴国との関連性は読み取れない為、やはり倭奴国と邪馬台国を同一視することはできない。

つまり、先述の通り「倭奴国」と「邪馬台国」という2つの勢力の存在を仮定しないといけないのである。


今回のまとめ

最後に、本回の冒頭で述べてきた「高地性集落の分布変遷」と前述の史料を結びつけて考えていく。


高地性集落の分布変遷は時代が下るにつれて東へ動いており(下図参照)、これは局所的な戦いが起きている場所ではありえない傾向であり、西の勢力が東の勢力を東に押し返さなければ見ることのできない傾向だといえるでしょう。そして、「倭国大乱」の前後において中国正史に登場する「国」が明らかに違うこと。これら考古学的、文献史学的研究両方から「弥生時代から古墳時代前期にかけて東西を二分するような勢力が存在していた。」という結論が導き出せます。


次回は青銅器文化圏の違いを中心に「2つの勢力が存在していた」という仮説の根拠を提示したいと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


【参考文献】

①分布変遷地図、年表作成、本文作成

『日本歴史地図(原始・古代編〈上〉)』柏書房、19821025日刊

『考古遺跡・遺物地名表』柏書房、1983420日刊

 『宮崎県史 通史編 原始・古代1』宮崎県、平成9331日刊

 『大分県史 先史編Ⅱ』大分県、平成元年331日刊

 『山口県史 通史編 原始・古代』山口県、平成20229日刊

 『愛媛県史 原始・古代Ⅰ』愛媛県、昭和57年3月31日刊

 『香川県史第1巻 通史編 原始・古代編』香川県、昭和63331日刊

 『岡山県史第2巻 原始・古代Ⅰ』岡山県、平成3926日刊

 『鳥取県史第1巻 原始古代』鳥取県、昭和47年3月1日刊

 『広島県史 考古編』広島県、昭和54年2月28日刊

『大阪府史第1巻 古代編Ⅰ』大阪府、昭和53年8月10日刊

『奈良県史第1巻 地理―地域史・景観―』藤田佳久編、昭和60年3月25日刊

『兵庫県史 考古資料編』兵庫県、平成4年3月31日刊

【参考史料】

 『漢書』中華書局、1997年11月刊

『後漢書 三国志』中華書局、1997年11月刊

『晋書』中華書局、1997年11月刊



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